小学校受験を通じて感じたこと 1
上の子が4歳時分、私は日々苦痛を感じていた。
子「ママみて~警察の車が悪者を追いかけてくるよ~!」
トミカやその他車のおもちゃを手に部屋を駆け回る息子。
子「ママ~早く逃げないと捕まっちゃうよ~!」
私はごっこ遊びが苦痛であった。
テンションが保てない。
面白味を見いだせない。
満面の笑みで見つめてくる息子に苦笑いするしかない私。
この生活が続いていくのか?
子供のために無理やりテンションを上げるのが母親の仕事か?
そう割りきれるほど私はできた人間ではなかった。
何か一緒に取り組んで楽しめることをしたい。
あわよくば実益も兼ねたい。
そうして私は小学校受験に手を出した。
小学校受験について本格的に考え始めたのは2018年5月であった。
息子は翌年4月に小学校入学を控えている。
これ以前も頭の片隅に小学校受験がよぎっていた。
しかしそこまで早く対策する必要はないと思っていた。
大学時分、お受験ママを題材にしたドラマをせせら笑っていたが、彼女たちがいかに子供の将来を考え尽力していたか?
それを痛感したのは筑波大学附属小学校の過去問を目にしたときであった。
これを年長組の子供たちが当たり前に解くのか。
信じられない思いだった。
こういった取り組みをおこなっている家庭がある一方、丸腰で小学校へ入学する子供もいることに戦慄した。
この差は永遠に埋まらないであろう。
子供に学習習慣を身に付けてほしい。
そしてやるからには目標がほしい。
そうして小学校受験への対策に舵を切った。
情報収集の過程で、小学校受験には一般的に年中11月頃からいわゆる「お教室」に通い始めるものだということを知った。
抽選に通ってから過去問やればいいんでしょ、程度の感覚だったが、その思いは既に過去問を参照して打ち砕かれている。
それにしても5月ですら遅いのか!と驚いた。
小学校受験は情報戦というが、情報を得られる対象が私にはなかった。
身近に小学校受験の経験者はいなかった。
インターネットで教材を調べ、まずは筑波の過去問を購入した。
大人の受験の感覚で、「過去問をブン回せば勝てる」と考えたからだ。
息子にやらせてみたところ、1ミクロンも理解できていない様子だった。
大人は何とか理解できる、という内容だ。
なんならたまに分からない問題もある。
5歳児はさぞ混乱しただろう。
かわいそうなことをした。
問題に沿って解きやすいように、厚紙や透明のプラスチックを切って動かしたり重ねたりできるようにしながら解かせてみた。
しかし、全く理解しない。
過去問は封印することにした。
次に私はまたインターネットで教材を漁り、こぐま会の「ひとりでとっくん365」を購入した。
はじめの問題は「同じ大きさの丸を5個並べて書きましょう」のような問題だったと思う。
早速子供に実施させたところ、私は非常に驚いた。
丸がまともに書けない。
細長かったり、大きさがまちまちになっている。
なるほど、基礎をおろそかにしては過去問など解けるはずがないのだ、と納得した。
「ひとりでとっくん」シリーズには、本の始めに学習の心得のようなことが書いてあり、毎回目に入るので覚えてしまった。
「幼児期の学習は年齢相応のことをさせるのが大切で、決して焦って実力以上のことをさせてはならない」というような趣旨だった。
「ペーパーを何十枚やったという数値的な実績より、親が付き添って丁寧に一枚解くほうが有意義」
これはどこで読んだのだろうか、強く頭に残っている。
ともかく丸と三角と四角をたくさん書いた。
形からはみ出さないようにクレヨンで色を塗らせた。
息子は大変そうだった。
私が当たり前にできることが、こんなにも難航するのか。
私は一体いつからこれらを当たり前にできるようになったなのだろう?
私は受験などしていないので、おそらく小学校生活を通じて次第に学んだのだろう。
ではこれを修学前に習得する意味は?
分からなかったが、ともかく目の前の課題をこなすのみであった。